大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪地方裁判所 平成8年(ヨ)693号 決定 1996年9月09日

債権者

多久島惠美子

右代理人弁護士

上原康夫

竹下政行

債務者

住道美容有限会社

右代表者取締役

渡辺佐津子

右代理人弁護士

川村哲二

石田文三

主文

一  本件申立てを却下する。

二  申立費用は債権者の負担とする。

理由

第一申立の趣旨

一  債権者が債務者に対し、正社員としての労働契約上の地位にあることを仮に確認する。

二  債務者は、債権者に対し、平成七年四月一日から本案判決が確定するまで、毎月一〇日限り、一ヶ月金三八万五〇〇〇円の割合による金員を仮に支払え。

第二事案の概要

一  本件は、次のような事案である。

債権者は、雇用関係にある債務者の就業規則の変更による六〇歳定年制の規定の新設に基き(ママ)、正社員としての雇用関係(以下「本件雇用関係」という。)は終了したとして、債務者から本件雇用関係を否定されているが、右就業規則の変更は無効であるから、本件雇用関係がいまだに存在するとして、債務者に対し、申立の趣旨記載の仮処分命令申立をした。

二  基本となる事実関係

疎明資料と審尋の全趣旨(個別に適示してあるものはそれによる。)によると次の事実の疎明があると認められる。

1  債務者は、美容業を業とする有限会社で、肩書地である本店所在地に美容店一店舗を構え、従業員は債権者を含め七名で、設立以来、資本の総額一〇〇万円、出資一口一〇〇〇円の有限会社であった。

債務者の代表者取締役渡辺佐津子(以下「佐津子」という。)は、他に美容、理容材料の販売を業とするヘアーワーク株式会社の、同人の夫渡辺隆司は鴻池理容有限会社の、右隆司の兄の勝村章はカットハウスKという理容、美容の会社の各代表者であった。

債務者を含めた前記各会社は、鴻池グループ(以下、「鴻池グループ」という。)のグループ企業である。

2  債権者は、昭和五七年四月一日の債務者設立時から債務者に雇用された従業員であり、店長の業務に従事していた。

債権者の賃金は、毎月一〇日払いで、平成七年四月ころの平均賃金は次のとおりおおむね三八万五〇〇〇円であった。

基本給二七万四四〇〇円、時間外手当五万五五七五円、役職手当三万円、皆勤手当一万円、通勤手当一万五九六〇円の合計総支給額三八万五九三五円(<証拠略>)。

債権者は、昭和五七年一一月一九日、佐津子から債務者の出資口数三三〇口を三三万円で譲り受け、さらに負担金として三三〇万円を債務者に払った。

3  債権者は、鴻池グループの労働者を構成員とする横断的労働組合のゼンセン同盟鴻池理美容はさみの会(以下「はさみの会」という。)の副会長であった。

4  債権者は、平成六年六月一九日、満六〇歳になった(<証拠略>)。

5  債務者は、平成五年一〇月、従来の就業規則を改め、新たに次のとおりの定年制を導入した。

就業規則三九条(<証拠略>)

(一) 従業員の定年は満六〇歳とする。

(二) 定年に達した者の退職日は、定年に達した日の属する賃金締切日とする。

(三) 定年に達した者でも債務者が業務上必要と認めたときは、本人の能力、成績及び健康状態等を勘案して選考の上、期間を定めて嘱託として再雇用することがある。

(四) 定年によって退職するときは、三〇日前に予告を行う。

6  債務者は、平成七年二月一四日ころ、前記嘱託社員制を明文化した嘱託社員等就業規則を制定し、平成七年四月一日より右規則を施行した(<証拠略>)。

7  債権者は、債務者と前記嘱託社員等就業規則に基く(ママ)嘱託雇用契約(以下「本件嘱託雇用契約」という。)を締結して、平成七年四月一日より、次のとおりの嘱託社員として勤務した(<証拠略>)。

(一) 雇用期間 平成七年四月一日から平成八年三月三一日までの一年間

(二) 基本給 月給二三万円

(三) 通勤交通費 月あたり一万円

8  債務者は、平成八年二月二七日付け書面で、債権者に対し、本件嘱託雇用契約を更新しない旨の通知をした(<証拠略>)。

9  債権者の平成八年三月分の給与は、基本給二三万円、時間外手当三万五四七九円、役職手当三万円、皆勤手当一万円、通勤手当一万円の合計総支給額が三一万五四七九円だった(<証拠略>)。

三  争点

1  定年制を定めた債務者の就業規則の変更が不利益変更といえるか、また右不利益変更にあたるとして合理性があるといえるか。

2  仮に前記定年制を定めた就業規則の変更が不利益変更に該当し、かつ合理性が認められない場合でも、債権者に右定年制適用について同意があったといえるか、仮に右同意があったとしても、債権者には錯誤があり、右同意は無効といえないか。

3  債権者と債務者間には、債務者が債権者の雇用を終身保証するような個別的合意があるから、債権者に前記定年制を適用することは右個別的合意に違反して許されないと解することができるか、また債務者が右定年制を前提として本件雇用関係の終了を主張することが信義則違反として許されないと解することが相当であるか。

4  仮に前記定年制の債権者への適用が有効であったとしても、債務者は、債権者が定年制の適用により本件雇用関係が終了する平成六年六月の賃金締切日後も債権者を右期日以前と同様に雇用していたから、債務者は、本件雇用関係終了の利益を放棄したと評価しうるか。

5  保全の必要性

第三争点に対する判断

一  就業規則における定年制の新設は、一般的に言えば不利益変更ということになる。

しかし、就業規則の不利益変更の場合であっても、当該条項が合理的なものである限り、個々の労働者が同意しないことを理由として、その適用を拒否することは許されないと解するのが相当である。

そこで、本件定年制の新設が合理的なものといえるかであるが、就業規則の不利益の合理性の判断は、その必要性及び内容の両面からみて、それによって労働者が被ることになる不利益の程度を考慮しても、なお当該労使関係における当該条項の法的規範性を是認できるだけの合理性を有するものであるのかという視点から判断すべきものであり、右視点から本件を検討すべきである。

二  疎明資料と審尋の全趣旨(個別に適示してあるものはそれによる。)によると次の事実の疎明があると認められる。

1  (証拠略)によると、一律定年制を実施している企業のうち定年を六〇歳と定めている企業の割合が七三・九パーセントもあり、債務者のように従業員数が三〇名未満の企業の統計はないが、従業員三〇名の企業では、六〇歳以下の定年制を定めている割合が高い。

2  (証拠略)によると、美容業界の従業員(美容師)の勤続期間は三、四年くらいで、従業員の年齢も二〇歳代が中心である。

3  (証拠略)によると、債務者の美容師の現在の構成は、二〇歳代が一人、四〇歳代が三人、五〇歳代が二人、六〇歳代以上が債権者を除くと零であり、勤続期間は、債権者を含め一〇年以上が三名、七年が一名、一年未満が三名である。

4  (証拠略)によると、他の美容院に比べて、美容師の平均年齢が高く、勤続期間も長いのは、債務者の前身であった鴻池理容株式会社の時代に三〇歳代で入ってきた美容師がそのまま残って勤務して、ここ一〇年間の美容師の交代は二、三名に過ぎなかった。また、債務者の美容師を募集した希望年齢も四〇歳以下と高く、他の美容院に比べ比較的高年齢の美容師で構成される美容院であった。

5  代償的措置について

(証拠略)によると、債務者とはさみの会との間には、協定書による退職金協定があり、退職金額はおおむね勤続三年以上から勤続期間一年に一万円を乗じる金額になっていた。

(証拠略)によると、退職後の債務者従業員について、前述の内容の嘱託社員制度が制定された。

6  組合との交渉経過と債権者の関与について

債務者を含む鴻池グループの代表者らとはさみの会の上部団体のゼンセン同盟大阪支部の執行委員の竹森義彦との間で、平成五年五月ころから、定年制を含めた話し合いがなされ、右竹森からの要求も考慮して定年年齢も六〇歳に引き上げられて、右債務者らの代表者らと右竹森との間で六〇歳定年制の合意ができた。右竹森は、右合意に至るまで、はさみの会の代表者であるはさみの会の各店の執行委員で構成する執行委員会に債務者ら代表者らの提案を持ち帰り、協議をして、右各執行委員の同意を得て、最終的に右六〇歳定年制の案で合意した。そして、債務者は、平成五年一〇月に六〇歳定年制を就業規則に新設する改正を行った。債権者は、右執行委員会に債務者の店の執行委員として出席していた。以上の事実から、債権者も債務者の代表者らの提案していた六〇歳定年制については、債権者は、平成五年一〇月の就業規則改正時までに六〇歳定年制についてその内容を十分知っていたと推測できる。

その後、債務者とはさみの会の間で、改正された新就業規則の忌引日数のことが、平成八年一月頃、嘱託社員の就業規則のことが問題となったが、債権者は、右問題について直接関与していたが、定年制のことについてなんら異議を唱えなかった。

7  債権者の本件嘱託雇用契約締結の時の経緯

債権者は、平成七年一〇月、佐津子から債権者が定年だから、正社員の身分がなくなることを直接告げられたが、前述のとおり、就業規則における六〇歳定年制の新設を知っていながら、平成七年三月末ないし四月一日ころ、佐津子が持ってきた嘱託社員の雇入通知書(<証拠略>)に署名、押印した。債権者が、右署名、押印するときの気持ちは、ほんとうは署名等したくないと思ったが、もう仕方がない、免れないと思っていたが、右通知書への署名、押印のやりとりの中で、債権者は、佐津子や一緒に来た美容部長の藤田健二からこれに署名等しないと首にするみたいな脅迫を受けたわけでもなかった。

8  債権者が債務者に出資した時の経緯

佐津子は、昭和五七年一一月一九日ころ、債権者に対し、債務者への出資をしてもらう際に「後継者を育成してくれれば、元気なうちはレジなど店の采配をしてくれてもいい。」という趣旨のことを言った。その時は、佐津子は、債権者が六〇歳に達した時は辞めてもらうという気持ちはまったくなかった。

9  債務者の利益放棄について

債務者は、債権者が就業規則の定年制の規定に従うと退職となる平成六年六月の賃金締切日後も、債権者に対し、それ以前と同じ処遇をしてきたが、これは、同年夏ころに債権者を被保険者、債務者を受取人とする住友生命相互会社の生命保険金の払込期間が満了となるため、右保険金の債権者側個人名への名義書き換えの問題や右書き換えのため債権者退職金として税金が掛からないようにするための取り扱いや債務者の決算(一〇月)の処理のためであって、そのため、佐津子は、平成六年四月、債権者に対し、右保険の受取人名義を個人名(債権者の希望する者)に変えるよう伝えていた。

10  変更の必要性

美容師の仕事内容、統計上の勤続期間の短いことや、年齢構成の若いことから、美容師の加齢による仕事上の能率低下が生じることが推測できる。ところが債務者の場合、前記疎明事実のとおり、比較的高年齢の美容師が長く仕事を続けているといえるから、債務者が就業規則で定年制を新設しないと、債務者の美容師の平均年齢は年々高齢化する可能性が推測でき、そのため債務者の美容業の効率低下のおそれや退職についてのトラブルが発生することが推測できる。

三  以上の事実によると次のことがいえる。

本件定年制の定年年齢は六〇歳の賃金締切日だが、六〇歳の定年制を多数の企業が採用しているという社会情勢、美容師の平均勤続年齢が若く、勤続期間も比較的短く、六〇歳まで勤める人は他の企業に比して少ないと考えられる美容院の実状、債務者の美容師の平均年齢は他の美容院のそれより高く、美容師の入れ替わりも多くはないので、勤続期間も比較的長いとはいえるが、債権者のように六〇歳以上の美容師はいないこと、一応代償措置が講ぜられていることや前記認定のとおりの本件雇用関係と本件嘱託雇用関係の内容面での比較、本件定年制の新設にあたって、債務者は組合と十分協議をしてきたといえる等右新設までの経緯等から本件定年制の新設が労働者にあたえる不利益の程度は受忍できないほどのものとはいい難く、債務者には六〇歳定年制を制定すべき必要性も認められること等を総合すると、本件定年制の新設は、その必要性及び内容の両面からみて、それによって労働者が被ることになる不利益を考慮しても、なお当該労使関係における本件定年制の条項の法的規範性を是認できるだけの合理性を有するものということができる。

債務者の美容師一般はともかく、債権者個人に限れば、債務者に出資したときの事情が問題となるが、佐津子の債権者に言った内容が前記の程度のものに過ぎないとすると、佐津子が債権者に対し、働けるうちは終生債務者に勤めることを約束したとは認め難く、債権者と債務者の他の美容師と別異に解する十分な事情は存しない。また、債務者に信義則違反があったとも認め難い。仮に、右債権者と佐津子との話し合いで、債権者が六〇歳を超えても勤めることができるという期待を持ち、それを一種の既得権的なものを得たと考えたとしても、債権者と佐津子との本件嘱託雇用契約締結の過程の中で、債権者は、右既得権的な期待を放棄したものといえる。なお本件嘱託雇用契約締結に際し、債権者に右契約上の債権者の法律行為を無効にする錯誤があったとは認め難い。

債務者は、債権者が六〇歳の賃金締切日後もそれ以前の労働条件で働かせていたが、それは生命保険を退職金として支給するための手続のために過ぎず、債務者が債権者に対し、六〇歳の賃金締切日後もそれ以前の雇用条件を維持し、本件雇用関係を終了させることをやめたと認めることはできず、本件雇用関係終了の利益を放棄したとは認め難い。

四  結論

以上の次第で、本件申立ては、その余の点を判断するまでもなく、失当であり却下を免れない。

よって主文のとおり決定する。

(裁判官 岩崎敏郎)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例